ネメシス・クライシスと呼ばれるようになる騒動の終わったあと、世界を回ることにした俺は現在アメリカにいた。というのも、同じレジェンドブレーダーであるキングにしきりに勧められていたからである。
このジムの扉を叩くことを。
旅の途中でここを訪れた俺は、ただしなかなか実行には踏み切れない。理由はよく分からない。こんな、ただの市井のベイのジム、訪問しやすいにも程があるじゃないか。俺はもっと厳しい状況さえも駆け抜けてきた。それなのに。
そうこうしていると、突然後ろから声をかけられた。
「こんなところで、何やってるの?」
「!」
突些に振り向くと、そこに立っていたのは黒髪碧眼の少女だった。
そこで俺はひとつ違和感を抱く。俺を見る少女の目がわずかに細められた。
「あなた、クリスだよね。」
少女は割合に低い声で俺に問いかけてきた。
「…どうして俺の名前を?」
思わずこちらも緊張した声で返す。かつての習慣が、腰のホルダーに手を伸ばさせた。
しかし指先がシューターに触れる前にふと思い当たる。そしてその頃にはもう、些細な違和感はとっくに掻き消されて、少女は人当たりの良い笑みを浮かべるのみだった。
「ああ、君は…」
「知っててくれたんだ。わたしの名前はフェリス。」
俺は彼女の顔を見たことがあった。場所はWBBA支部の建物の中。遺跡での戦いから戻ったとき、彼女はレジェンドブレーダーのキングやアメリカのブレーダーたちと共に行動していた。足に怪我をしていたから、最後の決戦には出て来なかったようだが。
「君はどうしてこんなところに?」
質問はしたが、それは少し考えでもすればすぐに分かることだった。案の定フェリスは質問に質問で返してきた。
「それはわたしが聞きたいことだよ。こんなところで、そんなにここの扉を見て。何やってるの?」
「俺は…」
俺は扉を見、フェリスを見、して、言葉に悩む。確かに、自分はキングに勧められたのでひとまずここを訪れたわけだが。それを簡潔にまとめて目の前の少女に答えるということが、俺は即座にはできないでいた。
そうしていると、フェリスがふと思いついたようにぽんと手を打った。
「あっ。さては、道場破りに来たのね! わたしが返り討ちにしてあげるわ!」
「…は?」
「なんてね。」
フェリスはころっと態度を変えてにっこり微笑む。まるで猫みたいな気まぐれな振る舞いだ。
「ジムに入りに来たの? それともただの見学? なんにしても、そんなところで立ってるだけじゃ勝手には扉は開かないよ。さ、入った入った!」
「あ、あの…」
うまい言葉が見つからずにどもっていると、少々強引に背中を押された。逆らうこともできないのでそのままジムに入れられる。
「何だ、フェリス。おまえが誰かを連れ込むなんて珍しいな。」
「わたしが来たとき、扉の前で入りたそうにしていたから。それに、知ってるひとだったし。ね、クリス。」
フェリスが真っ先に声をかけたのは、ジムの中の唯一の大人の男性だった。肌が浅黒くてスキンヘッドのその男性は、俺を興味深げに見ている。
「あ、ああ…。クリスだ。」
「入会希望か?」
「別に、俺は…。知り合いに誘われてたから、少し興味があって来ただけだ。」
「ふむ。それでもよろしい。フェリス、いろいろと案内してやれ。」
「はい、コーチ。」
見学者を案内するフェリスに、俺は後ろから声をかけた。
「コーチなのか、今のが。」
顔だけをちょっと振り向けてフェリスは答える。
「そうだよ。このダンジョンジムのスティールコーチ。とっても厳しいの。わたしたちはみんな、コーチにベイを教えてもらっている。」
「そうなのか…」
それは自分には何だか遠い世界の出来事のようで、いまいち実感がわかない。ひとまずそうとだけ相づちを打つと、フェリスは話を続けた。
「教えてもらっているって言っても、ある程度打てるようになったら、後は日々の練習の見張り役ってかんじ。ほら、上手になればなるほど、基礎練習を怠りがちになるでしょ? コーチはそういうところも含めて、それぞれに合った練習メニューをしっかり組んでくれるし、練習の様子も見てくれる。伸び悩んでいたら相談にも乗ってくれるし、コーチはメンテの技術もすごいのよ。それに何より、」
大人しい外見に反してフェリスはよく喋る。
「そんなすごいコーチの下でみんなが志を同じくして練習しているから、一緒にベイをやる仲間には事欠かないの。たまには一日丸ごと使って、トーナメント形式の練習試合をやったりもする。仲間たちと切磋琢磨しながらベイをやるのは、すごく楽しいよ。」
「…………。」
「ベイってすごく楽しいよね。」
俺の相づちは途切れた。やはりジムに入るなど俺には向いていなかったのかもしれない、そんな思いを抱き始めた頃、それを察したわけではないだろうが、フェリスがやけに大人びた声で言った。
「…あなたって、雇われブレーダーだったんでしょ。」
「あ、ああ。」
その様子を見て俺は、彼女に最初に会ったときの違和感を思い出す。だがやはりまたその違和感は気付いた頃には嘘のように消えていて、フェリスはこれも彼女には似合わない、少しいたずらげな笑みを浮かべる。まるで姉が弟をあやすかのように。
「変なの。」
そうして発せられた4字の単語に、俺は反射的に激昂した。
「何だと!?」
彼女の態度があまりに掴みかねる。警戒されているのか歓迎されているのかバカにされているのか分からない。分からないから苦手意識が膨れ上がる。
「でも、よかったね。もうこれからは、雇われなくてもベイができるよ!」
「…………」
俺はついには面食らった。俺は動物の猫はそこそこに好いていたが、この目の前の山猫を象徴したベイを操るブレーダーはまるで猫のようで好きにはなれないと感じた。
「そして、このダンジョンジムなら、いつでもその場と仲間が保証されてる。」
ジムの中で一番広いという部屋の真ん中、少し改まったバトルをするためだろう大きなスタジアムの前で立ち止まり、フェリスは改めてこちらに振り向いた。その表情には満面の笑みが浮かんでいた。
「ダンジョンジムへようこそ! ここがあなたのベイをやるのに合っているかどうかは分からないけど、少しの間、楽しんでいってね。」
俺は一つだけ思った。このジムでベイをやるのも悪くはないかもしれない。