豹変

「えーと、これでだいたいここの説明は終わり。そうね、あとは、」
「…うーん。どんなに口で言ったって分からないし、自分の目と手で確かめてみて!」
「わたしは自分のメニューを始めているから。気が済んだら声をかけて。」

 小走りに部屋の隅へ駆けていくフェリスの背中を、俺はどこか呆けたように見送った。たとえるならまるで夢から覚めた後みたいだ。
「…………。」
「あいつだけはやめときな。」
「なっ!?」
 そしてそんな俺の背中に声が降りかかる。本日二度目の大きな驚きだ。
「何だよ…?」
 俺は振り返った先にいる少年に訝しみの問いを向けた。名前と顔は一致しているから確かめない。フェリスと同じくネメシスとの戦いの際に姿を見かけた、アメリカのブレーダー、ゼオ・アビスだ。
「フェリスだけはやめとけって言ったんだ。あいつは正宗にぞっこんだからな。」
「は?」
 俺はわけが分からなかったのでまたも語尾を上げた。おそらく不審さを全面に出した表情をしているであろう俺を見ても尚、無駄に自信ありげなようすでゼオが答える。
「先輩からの忠告ってこと。」
 そのように説明を付け加えられてもやはり分からなかった。ひとまず俺を気遣ってくれているようだったので(おそらくきっと)、俺はなるべく相手を刺激しないように言葉を選びながら話した。
「言っている意味が、よく分からないんだが…」
 あいつだけはやめておけ。あいつは正宗のことしか見ていないから。それでは、それではまるで。
「……まるで俺が、フェリスのことを好きみたいな物言いじゃないか。」
 そんなつもりは断じてない。どちらかと言えばああいった上品で大人しくてすぐに泣きそうな女性はむしろ苦手なタイプだ。新入りの俺に懇切丁寧にジムを案内してくれたところを思うに、親切な少女なのだろうということは分かったが。
「違うのか?」
「あのなぁ! しっかり話したのは今日が初めてなんだぞ。それを、いきなり…」
 ゼオはとたんにつまらなそうな顔をした。
「あっ、そう。ならいいんだが。ま、そう思ってるうちが華だな。」
「…知ったふうな口を聞くじゃないか。だいたい、俺はおまえともしっかり話すのは初めてなんだぞ。おまえに何が分かるって言うんだ。」
「そりゃそのとおりだけど。言っただろ、先輩からの忠告だって。」
「…先輩、って………。」
 いったい何の先輩だというんだ? しばし考えを巡らせたあとでやっと素朴な答えに思い至った。ジムのだ。
 忠告と言うからにはこちらを思いやって言ってくれているだろうし、しばらく滞在させてもらうことになるかもしれないジムの人間に邪険にするのはためらわれた。
 言葉を濁す俺に対して、なおもゼオは謎の自信にあふれた表情をして言うのだった。
「痛い目見てからじゃ遅いってこと。」
 ひとまずその言葉だけ胸に留めておくことにして、俺はジムの設備の見学を再開した。

「フェリス。」
 前もって言われていたとおり、「気が済んだ」ところで俺はフェリスに声をかけた。シュートの練習をしていたらしいフェリスは、晴れやかな表情で自身のベイを拾いに行って戻ってきたところだった。(どうやら狙ったところに狙ったようにシュートすることに成功したらしい)
 フェリスは年相応の笑顔で気さくに答えた。
「なぁに? そろそろ見終わった? どう、楽しそうでしょ、ダンジョンジムは。」
「そうだな…こういった施設で改めてベイの訓練をするのは初めてだから、目新しいものばかりだった。」
「へぇ…。雇われブレーダーは、どうやってそこまで強くなったの?」
「…訓練施設は、このような暢気な雰囲気ではなかったし、ある程度打てるようになったら、実戦こそが訓練の場のようなものだったんだ。」
「そうなの。とても厳しい世界だったんだね。わたしには想像もつかないや。」
 俺に遠慮するようでいて、それでも世間話の体を崩さないで話す。フェリスは心優しい隣人そのものだった。過去の自身を思い返して苦い気持ちになると同時に、これが彼女の「素」なのだろうと何となく感じた。
 それからはまた事務的なやりとりに戻る。話の主題はやはり俺がこのジムに入るかどうかで、俺はまだはっきりと決めることはできないではいたが(優柔不断だと自分でも思う)、とても好意的にこの選択をとらえることができていた。つまり、ジムに入ってみんなと、目の前のこの少女と共にベイをやるのもいいな、と思っていた。
 俺はフェリスに素直にそのことを伝えようとした。だがしかし、その瞬間、
「フェリス!」
「あ、正宗。」
 突如乱入してきた第三の人物の声が、その場の空気を一気にぶち壊した。
 フェリスの表情が凍る。俺の言葉が行く先を失う。そして第三の人物が、
 角谷正宗が、まるで恐ろしい怪奇現象でも見たかのようなひどい形相で、こちらを見つめていた。 
「何やってんだよ。そいつは…」
 過去の事情を度外視すれば、咎められるべきは俺ではない。会話を中断させた挙げ句に固まっている正宗のほうだ。だが、しかし、今の前には捨ておくことのできない過去があった。それをお互い認識していたから、違和感で染まった場はそのまま停滞した。
 空気はぴんと張りつめて緊張する。そしてその糸を、か細い声がそっと弾いた。
「まさむね…」