| 「ゼオ、風邪をひいたの……?」 「いや、何でもない。」 ということが、ほんの数日前にもあったばかりだった。だからわたしは、ゼオがひどく苦しそうに咳き込むのを見て、心配を我慢することができなかった。 「ねえ、ゼオ。やっぱり、最近様子がへんだよ。体調が悪そう。」 「何でもない。」 ゼオは前と同じように首を振った。わたしは退かなかった。 「HDアカデミーで体調管理もしてもらっているの? お医者さんには見てもらった?」 「何でもないんだ。」 「もしかして、…」 わたしはゼオの肩に手を伸ばそうとした。肩に触れたからといって、何をするというつもりでもない。ただ、その寂しい肩を支えようとしないではいられなかったのだ。 けれどもその手は止まった。止められた。ゼオがはねのけた、大声と共に。 「何でもないって言ってるだろ!」 「…!」 わたしは手を降ろした。心のダムが決壊してしまったみたいに、感情が濁流となって押し寄せる。 わたしは俯いた。 「…ごめんね、ゼオ……」 様子がおかしい、少なくともつらそうなゼオに、嫌な思いをさせてしまった。詳細はどうあれそのことがとにかくゼオに悪くて、わたしは小さな消え入りそうな声で謝った。 そしてこのときわたしは、心の隅でこう予想してもいた。ゼオがこんなふうに声を荒げることは、今となってはけして珍しいことではない。そしてそのまま、何事もなかったかのように、いつものゼオに戻ってしまうことも。だから、次もきっと、例に漏れないのだろうと。なのに、 「あ、フェリス……ごめん。」 なのにゼオはこのときなぜか、昔のゼオに戻ったのだった。何か失敗をしたとき、けんかをしたとき、みたいに、どこかばつの悪そうな顔をして「ごめん」と言ったのだった。 わたしは顔を上げた。ゼオを見る。首を振る。 「ううん! ううん……ゼオが謝る必要なんてないよ。わたしがおせっかいだったの。」 「そんなことない。フェリスはおれのこと心配してくれたんだ。ありがとな。」 わたしはまた首を振る。 「ゼオ。」 ゼオの手を取る。今度ははねのけられない。 「なにかいやなことがあったら、…それでゼオがらくになるんだったら、すぐにわたしに言ってね。わたしにできることはちいさなことかもしれないけど、わたし、がんばるから。ゼオのために。」 「フェリス……」 ゼオのために尽くすようなことを言いながら、ゼオを救おうとするつもりでいながら、わたしはわたし自身が救われる思いだった。 黄金のトライアングルはわたしにとっても宝物みたいなものだった。だからそれが線になって、点になって、ついにはそれまでも消えてしまいそうになったとき、わたしは最後の灯火を消すまいと必死になった。そのことが、わたしの心に火をともした。 わたしは弱い人間だ。ひとりでは何もできない。しかしそれはゼオだって同じだろう、そう思いこんでわたしは今日も腐心する。 ゼオの口が開いて言葉を発した。 「だったら、」 「……え?」 「…………。」 ゼオの口からあまりにさりげなく告げられたその内容は、このとき、ほんとうに不幸なことに、たった一度だけ、わたしの心を上滑りしてしまった。 聞き直そうとしたわたしを遮ってゼオは笑った。 「……いや、何でもないよ。」 それが最大の不幸だった。ゼオにとってか、わたしにとってか、どちらかは分からない。 「どうしたんだ、フェリス。悲しそうな顔をして。」 わたしはゼオには、ほんとうのことばかり話そうって決めていた。ゼオがわたしになんにも話してくれないから。 そう、ゼオはわたしになにもはなしてくれない。HDアカデミーであったこと、していること。だからわたしは今ゼオが何をどのようにしているのかをまったく知らない。 「……わたしが貧乏なのを、ゼオは知っているでしょ。」 「そりゃあ。こんな家に住んでるんだからな。」 ところどころ綻びが目立つあばら屋を見回してゼオは応える。わたしは、そんなゼオを見て、言った。 「ついに、ジムに行くお金がなくなっちゃった。」 平坦に言ったつもりだった。 「……マジかよ。」 驚き再度確かめてくるゼオに、わたしは調子を変えずに頷いて見せる。慣れない言い回しだってする。 「マジ。ジムに行けなくなっちゃった。ベイの練習はどこでもできるけど、わたしはあのジムが好きだったのに。」 ベイはいつだってどこでだってできる。だから、ベイがやりたいからといって、必ずしもジムに入る必要はない。 けれどもわたしはダンジョンジムに入った。わたしは、スティールコーチがやっている、正宗やトビーやゼオが通った、オーエンやブレッドやブルースが通うあのジムが大好きだった。 だからとても悲しい。わたしは落ち込んだ。 わたしはゼオにはなるべく、わたしがつらいようなところは見せないようにしていた。誰よりもつらいのは彼なのだろうから、少しでも、わたしが笑っていなくてはと思っているのだ。 しかし、そんな覚悟を簡単に上回ってしまうくらいに、今回の件は悲しすぎた。いつかはくるだろうと予期してはいた。いたのだけれど、恐れていたことが現実にやってくると、恐れていたよりも恐ろしい。 だって、あのジムは、ベイを大好きなわたしの原点なのだから。 「だったら、おれがその金、何とかしてやってもいいぜ。」 「え……?」 「アカデミーに話せば、町のジムに行く金くらい簡単に出せるさ。」 ゼオは何でもないように、言ってのける。その姿はわたしにはとても格好よく映った。わたしにできないことを、簡単にやってしまうその姿。このときのゼオは、わたしにとってとても頼れる格好良い男性だった。手が喉からも出て彼を頼ってしまいそうになる、弱いわたしが。 わたしは反射的に言っていた。 「いいよ、そんなの! ゼオは気にしないで!」 「………いいのか?」 「いいよ。ゼオは自分のことだけ考えていて。わたしのことはいいから。」 ゼオがわたしのことなんて気にする必要はない。お金がなくて悲しいのはわたしの事情なのだから。 わたしのために使うお金があるのなら、それはゼオ自身のために使ってほしい。もっと良いベイ用品を買うのでもいい(それはアカデミーで支給されるのだろうか)、おいしいものを食べるのでもいい(それはアカデミーで与えられるのだろうか)。とにかく、わたしは、ゼオがゼオ以外の人(特にわたし)のために何かを削ることを心から嫌がった。 ただ、 「そうか。」 「うん。…こうしてたまに、会いに来てくれるだけでいいの。」 「…………。」 ただ、本音がぽつりと漏れてしまった。自分でも気がつかないうちにだった。わたしはすぐにはっとして口を押さえるが、出てしまったものはもう戻せない。 そしてそれにこれは嘘の気持ちではなかった。 ゼオから、会いたい、と言って始めてくれたこの会うことだけれど、もちろんそれはわたしの喜ぶところでもあったのだけれど、あったからこそか、いつしかそれはわたしの希望にもなっていた。 ゼオが会いに来てくれると嬉しい。 彼のつらいこととか悲しいこととかを少しでも緩和してあげたい。もちろん一番最初に立つのはその気持ちであったけれども、わたしは、わたしが、ただ純粋にゼオと会えることを望むようにもなっていたのだった。 わがままだ。こんなのわたしの、ただのわがままだ。 わたしはちらりとゼオを見た。ゼオはわたしを見ている。 ゼオは待っているような気がした、わたしの言葉の続きを。 「たまにでもゼオに会えれば、わたしはそれだけでいいから。だから、できれば、」 わたしはここで、今から自分の言おうとしていることがとても恥ずかしいことであるということに思い当たって、少しためらった。 でも、ゼオにはほんとうのことを言おうって決めていた。わたしのほんとうの気持ちを言おうって。 「これからも会いに来てほしいの…。」 小さな、消え入りそうな声だった。それでもゼオはちゃんと聞き取ってくれた。 恥ずかしくて俯くわたしの耳には、ゼオが小さく噴き出すのが聞こえた。 「なっ、なに…」 「……や、ごめん、ごめん。」 ゼオは口元を手で押さえてごまかしているが、笑っているのは明白である。 わたしは不満でちょっとふてくされた。 「……笑わないでよ。わたし、まじめなんだから。」 「違うんだ、別に、おもしろくて笑ったわけじゃないよ。ただ、フェリスがかわいかったからさ。」 「かわい……!」 わたしはあまりの衝撃に固まってしまった。そしてワンテンポ遅れて、ゼオも。今更自分の言った内容に気づいたのだろうか。 「あっ、や、でもさ、」 しばしの沈黙ののち、取り繕うようにゼオが言う。 「会いに来るなんて、そんなこと、簡単だからさ。今もずっとこれからも、おれはおまえに会いに来るよ、フェリス。」 「……うん…」 ゼオは照れくさそうに笑っていた。わたしは恥ずかしさに顔を俯けていたけれど、自然に口元は綻んでいた。 「ありがとう。」 正宗がいなくなってから長いこと経つ。 そろそろ季節が巡るころだろうか。 |