最後と決めて訪れた店を出るころにはもうすっかり夕暮れも深まっていて、夜がわずかに空を浸食していた。
たくさん歩いたし話したのでくたびれた。店からそう遠くないわたしの自宅へゼオが送ってくれると言い出して、また歩き始める。会話の少ない短い時間が過ぎて、「もうここでいいよ」とわたしは言った。人通りの少ない寂れた通りだった。
「フェリス。今日はありがとな、付き合ってくれて。」
「いいよ、別に! わたしとゼオの仲じゃない。…それよりも、」
ゼオの荷物は、今日の朝に待ち合わせをしたときから増えても減ってもいなかった。わたしは少々ためらいがちに尋ねた。
「よかったの? 結局なんにも買わないみたいだったけど。」
「……。買ったさ。」
「へっ?」
「ほら。」
わたしが状況を掴むより先に、わたしの目の前に小さな紙袋が投げ出された。取り落としそうになりながらも慌てて、それを何とか両手で掴む。
「え? え?」
「やるよ。」
と、わたしの戸惑いなんてよそに、ゼオは何でもないことのように言う。「やる」…「あげる」。言葉の意味に従って、わたしはわけの分からない気持ちのままで小さな紙袋をとりあえず開けた。そうでもしなければ分からないままだと思ったからだが、開けたら開けたでやっぱり意味が分からなかった。
中から出てきたのは、赤色のきれいな髪ゴムだった。きらきら輝いていて、光の加減で色が変わるようにすら見える。飾りのウッドビーズが目を惹きつけた。
わたしはもはや言葉さえもを失って、手の中の袋とゼオとを見比べるばかりである。そのうちゼオがため息をついて言った。
「…おれとおまえの仲、か。」
その言葉に、わたしはなぜかどきりとした。それは予感だったのかもしれない。現にこうして、
「…フェリス。」
「!」
ゼオにまっすぐに見つめられて名前を呼ばれたときには、心臓が跳ねたみたいにまでどきりとしたのだった。
「なんか…今日はさ。まるで、付き合ってたころみたいだったな!」
「……。」
わたしとゼオの間でその話は禁忌だった。と、いうほどではないのだが。あえて口にすることではなかった、絶対に。
だってわたしとゼオとは仲の良い友達なのだから。お互い吹っ切れた、つもりだったし、単純に良い思い出ではない記憶を掘り返して、いったい何になるっていうの?
だから、だから、こんなふうにあからさまに言葉にして話すのは初めてで、そうまでされてしまってはわたしにはたじろぐほかないのだった。
ゼオは話す。わずかにほほえんですらいるみたいである。
「いっしょに街を歩いて、買い物して。楽しかったよ。」
頷くべきときなのかもしれない、今は。わたしにとってあのときの記憶がどんなものであれ(さらには、ゼオにとってさえも)、ゼオが今このように口にするのであれば、わたしは頷いて、ゼオと共に笑い合うべきなのかもしれない。
それでもわたしにはそれができなかった。怖い、というわけではないけれど、ただ何となく足下がおぼつかなくなって、視界が眩む。ゼオのことをちゃんと見上げることができない。
「できたら、おれはこの一回きりにしたくない。明日もあさってもしあさっても、おまえといっしょに歩きたい。」
ただわたしの口からは義務的にこんな言葉が出た。
「そ、そんなの、いつでも付き合うよ。ゼオの頼みなら」
嘘ではない。気持ちにも言葉にも嘘はない。けれどもわたしの言ったことは、どうしてか、口にした瞬間に泡みたいに弾けて消えた。
そしてわたしを見るゼオがわたしを見て、手を伸ばして、わたしの肩を掴む。少しだけ距離が縮まる。ゼオの顔が近い。それでもこれくらいの距離は初めてじゃなかったから、どきどきしたり、そういうことはないはず、なのだけれど。だけどわたしの心臓は早鐘のように鳴って止まない。
「そういうんじゃない。なあ、分かってるだろ、フェリス。」
そう言われて初めて、焦るわたしのこころは終着点を見つけた。
「おれは、」
そうだよ、そう、分かってる。分かってるよ、いやってほど。わたしがゼオに義務的に返した言葉はいっぺんの濁りもないただの真実だったけれど、この場には似つかわしくなかったの。それだけだったの。だから意味をなさなかったの。
じゃあ、「この場に似つかわしい」言葉ってなに? このときわたしはそれを知っていたし、ゼオの言わんとしていることを分かっていたから、この一瞬がまるで永遠みたいに長く感じた。
「おれは、おまえが好きなんだ。」
それでも永遠は一瞬に過ぎる。ゼオは言った。
「正宗へのあてつけのためでも、意地や見栄を張るためでも、何でもなくて。」
「…ゼオ、」
待って。
「おれはただ、フェリス、おまえのことが好きなんだよ。ずっとおまえを見てた。」
「待って、ゼオ」
「へたっぴなおまえがさぼらず基礎練習をがんばってるのも、ジムのほかの奴らと打ち解けて笑い合ってるのも、正宗を見てるのも、ずっと。」
「やめて!」
「…フェリス…」
ゼオが少しだけショックを受けたみたいな顔をしたけれど、わたしは構わずに言った。ゼオに構わずに、それどころかなりふりにも構わずに、ただ壊れたおもちゃみたいに話した。
「…わ、わたしも、ゼオのことが好きだわ。好きよ、好き。ずっと好き。あ、あなたが思っている以上にあなたのこと好き。だけど、」
「だけど、それはおれの望む“好き”じゃない。分かってるよ、フェリス。」
そんなわたしをゼオが冷たく遮った。それなのにその顔は温かくほほえんでいる。これが優しくないはずがない。だけど、だから、尚のことわたしは取り乱して、あのときみたいに声を荒げてしまったのだった。
「わたしには分からないわ! ゼオ。わたしはゼオのこと信じてるよ。信じたいよ。でも、だけど、だけど、…」
今更どうしろって言うのだ。もうわけが分からなくって、わたしの震える両肩を掴むゼオの手でさえも嘘らしい。
「ああ、分かってる。分かってるよ、フェリス。あんなことしたおれがおまえにまた信じてもらおうなんて、ムシの良すぎる話だ。」
ゼオの言うことは正しかった。それでもゼオは言った、わたしのことが好きだって。
わたしは子供みたいにただ質問した。
「ねえ、どうして? どうして今更そんなこと言うの? ゼオはいじわるだよ。ひどいよ。どうして、わたしにあんなことをしたの? 教えてよ、ゼオ…」
「それは…」
優しくほほえんでいたゼオの表情が揺れて手が震えた。なんだかこの光景は懐かしくて吐き気がする。それでもあのときと決定的に違うところがある。それはこれがお互い二回目だっていうことだ。
子供じみた問いかけをしたわたしだったけれど、このときは何となく、ゼオが、わたしの質問には答えてくれないんだろうな、って悟っていた。
「…悪かった。別に、おまえを苦しめたいわけじゃないんだよ。ただ、気持ちを知っていてほしかった。それだけなんだ。」
ゼオはもう一度あのきざなほほえみを取り戻して言った。
「返事がほしいなんて言わない。信じてくれ、とも。だけど、気持ちを言うくらいは許してくれな。おれはおまえが好きだよ、フェリス。」
うそだ、とは、言わない。言えない。ただわたしは呆然と立ち尽くして、そんなわたしの肩をゼオが掴んでいたのだけれど、その手が静かに離された。
代わりにそっと囁かれる。
「…よかったら、これからおれのこと、避けないでくれ。フラれるよりも何よりも、そうされるのが一番つらい。」
「え、あ、…」
わたしははっとして顔を上げた。そのときにはゼオはもうすっかりいつものゼオみたいで、衝撃的なこと言ってわたしの心乱したのなんてうそだったみたいにして、あの気さくな笑みを浮かべているのだった。
「じゃーな、フェリス。」
**
避けないなんてことできるわけないじゃない。
ゼオがつらくたってわたしだってつらいのよ、そして困っているのよ。わたしはゼオを恨みがましく思った。