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 今までのどんな日よりもジムに行きたくなかった。
 だけど、だけど、休んだって良いことなんてなにもない。もうジムに行かない(すなわちベイをやめる)とかいう選択肢はわたしにはなかったのだから、今日休んだとしても明日はそうできるとは限らない。明日休んだとしてもあさってはそうできるとは限らない。あさって休んだとしても、…。
 だからわたしはジムのある通りまで行ってジムの建物の前に立ってジムの扉を開けた。今日も明日もあさっても、昨日までと同じ毎日を迎えるために。
「おはよう、みんな!」
 ロッカールームに到着するまで、誰かとすれ違うたびにあいさつをしてゆく。表面上に笑顔を張り付けながら、私の意識だけはふわふわと宙に浮かんで、ある姿を探してしまうのだった。
「フェリス!」
 それは別に特別にどうということではなくて、わたしを呼んだのはただの正宗の声だったのだけれど、わたしの心臓はどきんと跳ね上がってしまった。
「ま、まさむね。おはよう。」
「おはよう。」
 「別にどうということ」ではなかったのだから、わたしはいつものように会話を続ける。
「今日は、早いね。先こされちゃった。」
「ん、まーな。トビーはもう先に来てるぜ。さすが、いつも早いよなあ。」
「うん、そうだよね。」
 そして正宗が次に発する名前に予測はついたから、それだけ言ったわたしは正宗の発言を待った。
「で、ゼオは、」
 正宗はぜったいに気付かないだろうけど、このときのわたしは今にも死にそうな顔をしていたに違いない。
「まだ来てないぜ。こっちもわりと珍しいよなあ。どうしたんだろ。」
「ほ、ほんとだよね。」
「寝坊でもしたのかな。」
「はは、まさか。」
 寝坊。それが正しい答えであるのか正宗にもわたしにも分からないけれど、少なくともわたしはこの現実にこれ以上ないくらいに安心した。こころの中でそっと胸を撫で下ろす。何にも解決に繋がらない、その場限りの安心だって分かっていも、そうせずにはおれないのだ。
「おはよう、フェリス。」
 そしてその声が後ろからわたしに振りかかったとき、条件反射的に驚きはしたが、それもやっぱりただのトビーの声である。わたしはすぐにそこに気がついて、何となくの笑顔で振り返った。
「おはようトビー。」
「今日は僕とからだね。よろしく頼むよ。」
「ええ。今日こそレイラーに一泡吹かせてやるから!」
 そしてトビーと正宗が会話を始めたので、私は荷物を置くためにロッカールームに向かう。
 ここ何日もかけて行われている総当たり戦が、今日はトビーとわたしのカードで始まるのである。レイラーに持ち換えたトビーとは今までに何度も戦ったことはあったが(ちなみに一度も勝ったことはない)、こうして改めてみんなの前で、というのは初めてだった。わたしとトビーは方向性こそ違えど同じバランスタイプのベイを持つブレーダーだ。そのことがわたしの対抗心をよけいに煽った。
 トビーに勝って、わたしだって強くなったってこと、みんなに知らしめてやるんだから!
 わたしは廊下を歩くこの一時だけは例の彼のことなんて忘れて、熱い気持ちに浮かれていた。けれどもジムはそう広くはないからそんなのすぐに終わる。ロッカールームの扉を開けたらゼオがいた。
「ぜっ」
 あまりに驚いたものだから、裏返って飛び出た声も、名前を呼びたかったんだかただ驚いたんだか分からないくらい中途半端になってしまった。口が開いたままで、どころか身体が部屋に入りきることもなく、固まる。
「…よう、フェリス。」
 ロッカーに荷物をしまっているところだったゼオは、わたしに気がつくとわたしに顔を向けて片手を上げてさらっとあいさつをした。別にそれはいつものゼオのあいさつだった。だったのだけど、このときばかりは、まるで照れくささを押し隠したみたいにわたしには映ってしまう。
「(なんでよ! まだ来てないって言ってたじゃない、正宗のうそつき!)」
 わたしはこころの中で泣きながら正宗を恨んだ。とはいえ正宗がうそを言っただなんて微塵も思わない。おおかた正宗がジムに来たのがゼオがロッカールームに消えた直後だったとか、そもそも正宗がゼオが既に来ているのを忘れていたとか、そういったことだろう(たぶん前者だ)。そんなのようく分かっている。
 分かっていてもわたしは何かを呪わずにはおれなかった。だってわたしの表情も口も足も動かないんだもの。
「…どうしたんだよ、そんなところで。さっさと入って、準備しろよ。」
「う、うん…」
 ゼオが仏頂面で声をかけてきたから、わたしは何とか頷いてそれだけ言った。ベイバトルをするときみたいにこころを研ぎ澄ませたら、足も何とか動いた。わたしはからくり人形みたいに歩いて歩いて、ゼオがいる位置からいちばん遠いところにあるロッカーに荷物を置いた。
「…………。」
「…………。」
 沈黙が気まずい。けれども、たとえ何かを話したって、気まずいことに変わりはないのだ。
 わたしにできるのは一刻もはやくここから立ち去ることで(その前にゼオがさっさと出て行ってくれたらそれがいちばんよかったのに、何でか背後の気配は動かない。何でだ)、だからロッカーに置いた鞄を開けて飲み物を取り出して鞄を閉めて、じゃない、オイルを差したかったからそれは外に出さなきゃ、ポーチを鞄から出して開けて中身を取り出そうとしたら落ちた。
「あっ」
 落下したポーチは大口を開けたままだから、中身がぶちまけられた。わたしは全身で慌ててブラシとクリーニングペーパーとグロスとその他もろもろを拾い集めて、肝心のオイルがどこかに転がってしまって見つからないのでなおさら焦って、
「はい。」
 なみなみと油の注がれた、太くて地味なボトルケースがそんなわたしの目の前に差し出された。わたしは一瞬きょとんとする。すぐに、ゼオが拾って渡してくれたのだと気付いて、反射的にお礼を言って受け取る。受け取った直後にもうちょっと進んで気付いて慌てて後ずさった。
「ぜ、ぜぜぜ」
 もはやゼオの名前すらわたしには呼べない。目を見ることなんてもっとできない。昔の引っ込み思案で暗いだけの自分みたいになって、オイルのボトルをぎゅっと握りしめて俯いて立ち尽くす。
 すると、わたしの頭の少し上で、誰かが噴き出すのが分かった。誰だなんて考える間もない。ゼオだ。
 わたしは不思議に思って少しだけ目線を上げた。ゼオの胸と首と顎くらいまでが見えて、実際にゼオは笑っていた。
「…………。」
 引き続き気まずいのと事情がよく分からないのとおもしろくないのとで、わたしは黙り込む。笑って満足したようすのゼオが改まって口を開いた。
「…あのなぁ、フェリス。」
「な、なに」
 しかしここでまた間がひらく。わたしは意を決して、顔を上げてついにゼオの顔を見た。ゼオは楽しそうににっと笑って、自分の口の右側を指で示した。
「口の横にパンくずついてるぞ。」
 予想外の発言だった。
「えっ、えっ!?」
 何だかもうわけが分からなくなって、わたしはとにかく自分の両ほっぺを触ってパンくずとやらを探す。そして自分が今朝はパンなんて食べていないことに気が付くのにはそう時間はかからなかった。
 ゼオは言った。
「うそ。」
「……なによ…」
 不満を外に出して唇を尖らせると、ゼオは悪いと言ってまたも笑った。そして反応がおもしろかったからさと付け加える。
「もう、からかわないでよねっ!」
「フェリスがからかいやすいだけさ。」
「人で遊んで楽しんで……。今日の午後、楽しみにしててよねっ!」
 ああもちろん。そう言い残してゼオは部屋を出て行った。とたんに静かになった中にわたしは取り残される。
「(…ゼオは……)」
 ゼオは。またわたしは察した。ゼオは、ただ、いつもどおりに接してくれようとしているだけなのだ。
「(言ってたもんね。好きじゃないって言われるよりも、わたしといつもみたいに話せなくなるのがつらいって。)」
 その気持ちはよく分かった。なぜならわたしも同じだったからだ。わたしだって、仮に正宗に告白されたとして、それを拒まれるよりも何よりも、それで正宗を困らせたり、正宗と今までみたいにいられなくなったりするのがいちばん怖い。
 だから、わたしはゼオの思いに応えたいと思っていた。ゼオがいつもどおりを望むのなら、わたしもそうあれるよう努めようと。だけど。
 だけど、無理だ。わたしにはそんなこと無理だ。仲の良い友達だと思っていた男の子から予想だにしなかった思いを告げられた驚きとか気恥ずかしさとかそんなことにはほとんど構わなくて、彼の思いにまるで気付かず気楽に笑っていた自分がただ許せない。
 この胸の痛みもいつかは風化するのだとしても、それは絶対に今ではない。すぐにいつもみたいに、なんて、不可能だ。
 なのに、なのに、何で! 何でゼオは、わたしにあんなことを言ったのだろう。ずっと好きだった、なんて。そんなこと。
 どうなるかなんて、こうなることなんて、きっとゼオだって分かっていたはずだ。自分の気持ちを口に出すことがいかにして「今」をぶち壊すかを。
「(今のままじゃだめなの? わたしにはあなたが分からないよ、ゼオ。)」
 明日になったら分かるだろうか。あさってになったら胸の痛みは癒えるだろうか。しあさってになったら、…