「フェリスも目指さないか? 世界最強、ナンバーワンを!」
 トビーはわたしにそう言った。正宗もゼオも、オーエンもブレッドもブルースも、ジムに入りたてのころ言われたらしい。
 わたしが言われたのはジムに入ってからなかなか時間が経ってから、初心者だったわたしもなんとか「ブレーダー」と名乗ることができる程度にはベイができるようになってからのことだった。
 世界最強、ナンバーワン。正宗やトビーやゼオがよくナンバーワンと言ってきた理由がここでやっとわたしに分かった。発祥地は、やはりというかやっぱりというか、トビーだったのだ。
 ベイで一番になるそれを思えば今のこの地道な努力だってつらくないだろうというのがトビーの考えだった。トビーはまっすぐにわたしの目を見てそう言ってくれた。トビーは言葉の有無に関わらず何でも実行させてしまうひとで、うそは言わないひとで、正直なひとだ。
 もしかしたらわたしでも、ナンバーワンを目指すことができるのかな。遥かかなたに浮かぶものが輝きを放った。少しだけ、夢を見ているみたいな感覚に陥る。
「ナンバーワンになんてなれっこないよ。だってわたしへただもん。」
 けれども間が悪かった。この日わたしはシュートを外してジムのガラスを割り練習試合に全敗しベイのコントロールを誤りシャドウシュート途中で挫折し階段の最後の段を踏み外したところを正宗に見られて笑われた。
「やっぱり、わたしにはベイなんて向いてなかったのよ。女の子なのにやろうとしたのがまちがいだったんだ。」
 ずっと心の中で思うだけだったことが、トビーを前にしたら簡単にボロが出てきてしまった。
 こんな汚いところに返事なんてしづらかったのだろう、トビーはすぐには言葉を返さないで、しばらく静かな時間が流れる。わたしはわたしの発言をしてしまった手前、進むも戻るもできないでいた。
「…ほら、ぼくってさ、女みたいなナリしてるだろ?」
 沈黙ののちのトビーの言葉はそんなものだった。てっきり慰めてくれるものとこころのどこかで勝手に思っていたわたしは、戸惑うを通り越して疑問を抱く。
「…トビー?」
「背も高くないし、色も白いし、腕も細いし。」
 そのかんにもトビーはつらつらと喋っていく。わたしを置いていく。
「…だから、なに? どうしたのとつぜん。」
「きっと、力だけだったらゼオや正宗に勝てないよ。もしかしたら、フェリスにも負けるかも。」
「だから?」
 わたしは少しいらいらしてきた。そんなわたしの胸を、トビーの言葉が無情にも貫いた。
「勝てないのを性別のせいにしちゃだめだ。」
 わたしは黙ってしまった。何かを言うことができなかった。トビーは話す。その表情は、別におろかなわたしをあざけっているようでも、あわれんでいるようでもなかった。
「ベイバトルには関係がないんだよ、性別なんて。確かに、技術や力はあればプラスになる。でもね、最終的に勝敗を決めるのはそんなものじゃないんだ。」
「……じゃあ、なに? トビーはどうやって相手に勝ってるの?」
 わたしは業務的にそれだけ尋ねた。
「それをフェリスが分かったとき、きっときみはゼオにも正宗にも、ぼくにも勝つことができるよ。」
「分からないから、聞いてるの。教えてよ。」
 トビーはほんのわずかにほほえんで言ったけれど、わたしには何も分からないからまだ答えを求めた。
「……ぼくが前に、きみに言ったことを覚えてる? バトルを見る目の話。」
「うん。わたし、トビーがあんなこと言ってくれたから、わたしには才能があるのかと勘違いしちゃった。それとも、わたしにバトルを見る目がほんとうにあるなら、バトルに勝てるってこと?」
 もうすでにこのときわたしのこころはいらいらむかむかトビーへのいわれのない非難めいた気持ちで満たされていたから、出る言葉も自然とそれにふさわしいものになっていた。でもこれが、悲しいかな、わたしの本心、本当の姿なのだった。
 トビーは首を振った。まっすぐでさらさらな髪の毛が揺れる。
「いいや違う。それはあくまでひとつの例だ。」
「はぐらかさないでよ。」
「はぐらかしてなんかいないよ。それにね、ぼくだって何でも知っているわけじゃない。ぼくにとっての正解が、フェリスにとっての間違いだってこともある。」
「………ふーん。」
 わたしはやっとのことで付け入る「穴」を見つけてあいづちを打った。思ったよりもずっと冷たい声が出た。
「それなのに、あんな偉そうなこと言ったんだ。」
 続けた言葉は十分にトビーのこころを傷つけることに成功したようだった。わたしがそれまで何を言っても何を愚痴っても平然としていたトビーは、ここで初めて目に見えて表情を落ち込ませる。声もだ。
「…うん…。そうなるね。」
 そのことに気付いた瞬間にわたしは罪人になった。してはいけないことをしてしまった。罪悪感というよりもただ誰かに許してほしい、そんな気持ちが生まれたが、でも今まで何でも許してくれたトビーこそが被害者なのだ、わたしにはこのまま走り続けることしかできない。
 わたしは言った。もはやそこに意味なんて必要なかった。
「なによ、なによ。トビーのばか。トビーなんて嫌いよ!」

 あのあと逃げるようにジムを飛び出して家に帰った。自分の部屋に入って扉を閉めたらとたんに冷たくて静かなわたしが帰ってきてわたしを咎めた。
「…………トビーにひどいこと言っちゃった……」
 それなのにわたし自身の胸には、こんなときでさえも、こんな思いが浮かぶのだった。
 正宗に嫌われてしまうかもしれない。
 正宗はトビーが大好きだ、わたしよりも。だからわたしがトビーにひどいこと言ってトビーを傷つけたなんて知ったら、わたしを嫌うに決まっている。
 わたしはなんていやな子なんだろう。
 でも、だから、きっと、こんなわたしだから、正宗にトビーのように好きになってもらえないのだ。わたしはトビーみたいにはなれない。
 ああきっとわたしがあんなに落ち込んだのは、ただのしっとだ。トビーみたいになりたくて、でもなれなくて、だからわたしのベイの下手なのと女なのと暗いのとかとにこじつけて、勝手に落ち込んで怒ってトビーにあたっただけだ。
 わたしは最低な子だ。
 わたしは明日、ジムに行きたくないと思った。でも行かなければきっと言いわけもできないうちに正宗がわたしを嫌ってしまう。それはずっといやだった。
 正宗に嫌われたくない。浅はかなことに、わたしはそんな思いひとつで明日も変わらずジムへ行くことを決意したのだった。

 翌朝暗い気持ちで正宗よりも早くジムに行くと、トビーがいつもどおりの明るい声で「おはようフェリス」とあいさつしてきた。
 わたしは拍子抜けした。まるで昨日のことがうそみたいに、トビーはいつもどおりに話しかけてくる。昨日のことを引きずって引きずっているのがわたしだけみたいで、今日も笑顔のすてきなトビーを前にわたしはなおさらみじめになる。
 おかげで言いわけすることもできなくなってしまった。
「あ、あの……」
「フェリス。昨日はごめんね。」
 でもトビーはふと突然謝ってきた。周りに人がいないときにだった。
「ベイ歴やジムにいる時間が長いからって、先輩気取りできみにお説教してしまった。ごめんね。」
「トビー、でも…」
「いくら女の子みたいに力が弱くたって、ぼくは男だから、女の子のフェリスの気持ちが分かるわけないのにね。昨日は気分が悪かっただろう?」
「でも…」
「努力の成果が目に見えないと不安になるよね。でも、いっしょにがんばろう、フェリス。立ち止まりそうになったらぼくが支えてあげるから。」
「で、でも…」
「仲間だもんね、ぼくたち。」
「そんなことない!」
 わたしは叫んでいた。トビーが傷ついたように目を丸くする。
「そんなことないよ。だってわたしはトビーにひどいこと言ったもん。」
 それなのにトビーは、わたしが息継ぎもそこそこに早口でまくしたてると、まだわたしを許し続けてくれたのだった。
「…気にすることないよ。フェリスは落ち込んでいたんだろう?」
 そんなトビーを前にすると、やっぱりわたしはただのみじめな罪人になってしまう。それがわたしをさらにみじめにして、まだまだそれでみじめになって、わたしは小さな子供みたいにただ呟いた。
「ちがう、ちがうの。ほんとはそうなんじゃない。そんなんじゃない。ちがうよ……」
「え……?」
 本心といっしょにわたしの両目からぽろぽろと涙がこぼれ出した。
「なんでトビーはそんなに良い子なの……? わたしじゃかないっこないよ……」
「フェリス!」
「…ごめんね、ごめんね……。トビーはなんにも悪くないの。わたしがぜんぶ悪いの。ごめんね…。」
「フェリス……」
 ごめんねトビーごめんねごめんねと繰り返しながらわたしは大泣きしてしまった。こんなときでも優しくうろたえるトビーを前に、わたしは涙をどうすることもできずに泣き続ける。
 こればっかりはトビーでも止めることはできなかった。わたしが泣いてトビーがうろたえるうちに、声を聞きつけて正宗とかゼオとかコーチとかジムのみんなとかがやって来た。
「なになに、どうしたんだ。あっトビーがフェリスを泣かせてる!」
「やーいやーい、泣かせたーっ!」
 何にも知らないみんなの声に、トビーは違うともそうだとも言わなかった。ただ落ち着いた声と表情で説明するだけである。
「みんな、フェリスが調子が悪いみたいだから。あんまり大きな声を出さないで。」
 そう言ったのが他でもないトビーだったから、みんなはすぐに納得して真剣に受け止めて静かになった。オーエンが小さな声で「フェリス、おなかでも痛いのか?」と聞いてくる。
「うん、そうみたいだ。フェリスのことは心配しないで、みんなは練習に戻って。」
「腹いたいのか、フェリス! だったらこれ食えばなお」
「ばか。フェリスはおまえみたいなおめでたい味覚はしてないんだよ。」
「おめでたいってなんだよー!」
 トビーの一声で誰もがまた来た方向へ帰って行った。正宗とゼオも、言い争いをしながらも結局トビーの言うことには従うのである。
 最後に残ったコーチがわたしに一言。
「フェリス。体調が悪いなら無理をするんじゃないぞ。早退したくなったらすぐに言うんだ。」
 それからコーチも立ち去ってまたトビーと二人だけになる。そのころにはわたしの涙にも限りがあるから止まっていて、わたしがすんすんと鼻をすする音だけが空間を満たしていた。
「フェリス。謝らないで。ぼくは何にも気にしていないから。」
「うん……」
 でもだったら、わたしはどうすればいいというのだ。悪いことをしたわたしは謝らなければ、ほかにどうすることもできない。罪人は罪人のままである。
 トビーはわたしに背を向けてから言った。直前の、しっとりと悲しそうな表情を隠すみたいだった。
「……代わりに、できれば、また明日もぼくといっしょにベイをやってほしい。」
「そ、そんなの!」
 そんなのはわたしにとって願ってもみないお願いだった。これを受ければ、わたしがトビーの願い事を聞いてあげれば、わたしはやっと良い人になれる。たいそうな言い方をすれば、罪をつぐなうことができる。
「するよ……。いっしょにベイやろ。明日もあさっても。わたしと仲良くして、トビー。」
「ありがとう、フェリス。」
 トビーが再度わたしを見るために振り返ったときの動作は、女のわたしが見とれてしまうほどきれいで女らしくてかわいかった。何で男の子のトビーにこんなかわいらしさが備わったのか、神様ってほんとうに不公平だ。
 それなのに表情はとても強くてかっこいい。これで後先を考えなければ、単純にわたしは勇気づけられてしまうだろう。トビーのことを大好きになってしまうだろう。
 だけど。
「(だけど、だめだよ、トビー。あなたがそんなに良い子のままじゃ。わたしがこんなに悪い子のままじゃ。)」
 一生この傷は消えない。
 それでもきっとわたしは明日は笑うだろう。そうでもしなければもっと悪い子になってしまうから。