そういういきさつで、わたしはベイブレードなるものを拾ったのだった。
 貧乏たる者、ただで得られるものは何としてでも得るのが基本である、とはいえ、落ちているものにはどんな危険があるか分からないのだから、軽率に拾わないのも基本である。
 けれども夕暮れどきわたしがそのベイブレードを見つけたとき、わたしにはそれを拾わないという選択肢なんてなかった。見つけた瞬間が決定のときだ。
 そしてわたしにはそのベイブレードを見つけないなんていう選択肢もきっとなかっただろうから、つまり、わたしはそのベイブレードを拾うべくして拾ったのである。
 何にせよ、この要するにコマの使い方はよく分からないけれど、わたしはこれを使うべき場所をしっている。**通りにある、コマをモチーフにした看板が目印のジムだ。
 そこから聞こえる楽しそうな声をわたしはしっている。前を通りかかるたびにそれはいやでも聞こえてきた。聞こえるだけだったけれど。
「(返したほうがいいよね。)」
 わたしはこれを拾うべくして拾ったと思ったが、だからといってわたしがあの楽しそうな声の中に加わるという道には繋がらない。
 わたしにはあれらは別世界の出来事だった。
 わたしは別世界の象徴的なものを手にしてしまったので、それを別世界の人たちに返さなければならない。そう思ったのだった。
 だからわたしは、上面の六角形の中にわたしの大好きな猫の絵が描かれたベイブレードを、ジムの人たちに返すべく、いつもは買い物に行く道のりとして利用しているに過ぎない**通りにあるジムを目的として外に出た。

 いつもと違う目的で出た外はいつもと違っていた。空が青い。風が気持ち良い。通りを歩く人の表情が様々である。
 けれどもやっぱりそんなことはわたしには関係がない。結局わたしの表情はいつもどおりでいつもと同じでいつもと変わらない。ただひとつ、その手にベイブレードを持っていること以外は。
 **通りは買い物に行くのによく使う道だったので、ジムの場所もすぐに分かる。何よりそこからは楽しそうなあの声が聞こえてくるのだ。地図などなくてもすぐに見つけることができた。
 そしてわたしは立ち尽くした。
「(どうしよう……。)」
 ただ“返さなければ”という思いだけで、あとのことは何も考えずにわたしはここにやって来た。
 扉を叩けばいいのだろうか。勝手に入ればいいのだろうか。それとも事前に連絡を入れなければならなかったのだろうか。
 わたしには分からない。しかし何にしてもわたしはとにかくこの扉を叩くか取っ手を回すかしてくぐらなければならない。
 わたしはどうすればいいのだろうか。今このときこの場には、わたしがいつもそれに従ってこなしているようなルーチンワークのようなものは一切なかったし、誰もわたしに道しるべを与えてくれなかったので、わたしは途方に暮れた。
 不安、ためらい、疑問、恐怖、などいろいろな感情がないまぜになってわたしを苦しめたあと、最終的にわたしはこの結論に行った。
「(……帰ろう。)」
 もとより、わたしはこのベイブレードを勝手に道端で見つけて勝手に他人とは思えずに勝手に拾っただけである。これがこのジムに所属する人たちのものであるとは限らない。わたしがこれを返却する義務などないに等しい。
 なぜわたしが返さなければいけないと思いに思い込んでここまで足を運んだのか、それは今となってはよく分からないが、何となく思うことはあった。
「(楽しそうだなあ。)」
 中から聞こえる声が楽しそうだった。みんなが何かに夢中になって練習している。競い合っている。腕を高めている。
 思えばわたしには趣味などなかった。ただその日を暮らすことに精一杯で、何か他のことを考える余裕などなかった。わたしは毎日がつまらなかった。
 そんな中で、ルーチンワークの途中によく通るここから聞こえる声の、何と楽しかったことだろう。いつしかそれにわたしは憧れて、だから今日ここに来てしまったのかもしれない。
 何にしてもわたしは場違いなのだった。別世界のみんなが夢中になって楽しんでいるもの、ベイブレードを手に入れたからといってそこに混ざれるわけがない。
 あるとき現れたイレギュラーはすぐにレギュラーに成り代わる。わたしは帰ろうと思ってからだの向きを変えようとし始めた。
 そのときだった。
「こんなとこで、何やってんだぁ?」
 あまりの驚きにからだの向きも変わりきらずに、わたしはその場で固まってしまった。意識のすべては声を抑えることにあてた。
 聞こえたのは少年の声だった。わたしは口を押さえたまま振り返ってその人を見た。髪が黒くて肌が黄色くて顔立ちがわたしたちとどこか違う。すぐにアジア系の人種だろうと思い当たる。
 いぶかしげにわたしを見ていた少年は、すぐに何かに気付いたようにはっとなった。
「ハッ、まさか道場破りか!? 相手してやるぜ!」
 ぴっと指が突きつけられる。わたしはただパニックになって、いっしょうけんめいにありのままを話した。
「ちっ、ちがっ。そんなことない! わたし、ただ覗いてただけで…」
「覗いてただけって。そんなことしてどーすんだよ。練習メニュー盗みに来たとかか?」
「ちがうちがう! わたしは…」
 話そうにもうまくいかない。舌がもつれて思考がからまってどうすればいいのかもっと分からなくなる。
 そうしてあたふたしているうちに、少年の手がわたしの背中をばしっと叩いた。
「まあ、何でもいいんだよ。とりあえず入ろうぜ!」
「ええええっ!?」
 そして少年は、わたしが十何分もかかっても触ることしかできなかった扉をいとも簡単に開けてしまった。
 中の光景が一気にわたしの視界に広がる。と同時に中の視線が一気にわたしと少年に注がれる。わたしは恥ずかしくて俯いた。
「コーチ。道場破りかよそのジムの回しもん。」
 少年が声をかけたのは、ジムの中にいた唯一の大人の男の人だった。肌が黒くて体格が良い。
 コーチと呼びかけられたその大人の男の人は、少年を見て怪訝そうな顔になって言った。
「正宗。おまえはまた変なヤツを……って、ん、女の子?」
 男の人の視線は少年からついにはわたしに移る。わたしは体格の良すぎる男の人に見られてびっくりして思わず縮こまってしまった。
 そしてそんなわたしを見て男の人が少年に一言。
「バカ。こんな子が道場破りでもよそのジムの回し者でもあるはずがないだろう。ウチのが悪かったな。さ、うちに帰りなさい。」
 思った以上に優しく声をかけられて、わたしはつい戸惑ってしまう。
「あ、あの……」
 帰れと言われた。それは当初のわたしの目的でもあったのだし、だからわたしは帰ればよい。
 少年が声をあげる。
「えーっ、なんだよ。別に女でもいーじゃん。」
 そして今度は少年がわたしを見た。何かを言いかけて、すぐに「えーと」とどもる。
 わたしはすぐ気がついた。このときのわたしの勘の良さを讃えたいくらいだ。
「フェリス! わたしの名前はフェリス。」
「フェリス。」
 わたしの勘は外れていなかったみたいで、少年はすぐに繰り返して頷いてくれた。だからわたしもわたしの中で彼を勝手にマサムネと呼ぶことにする。
 マサムネはにかっと笑ってわたしに言った。
「おまえもベイやるだろ!」
 その瞬間、わたしにとってずっと別世界だった世界がわたしの世界と繋がった。わたしがベイをやる。それは少し前のわたしには考えられないことだったが、今ここにはその選択肢が転がっている。わたしが少し手を伸ばせば届くところに。
 わたしは誰か他人に譲渡しようと思って持ってきた手の中のベイブレードと、目の前のマサムネの笑顔を見比べた。
 わたしはずっとこれを望んでいたのかもしれない。しょっちゅう聞こえる楽しい声の中に、それを聞くだけでなくわたしも混ざりたいと思っていたのかもしれない。
 手の中の金属のコマがずっしり重い。わたしはそれをぎゅっと握りなおして、マサムネを見て言った。
「うん。わたし、ベイブレードがやりたい! だからこのジムに来たの。」
 するとマサムネの笑顔に嬉しそうな色が加わった。さしずめ仲間が増えて嬉しい、といったところだろうか、会ったばかりのわたしにでも感情の変化が表情からすぐに分かる。
 さて次はわたし自身が勇気を出す番だ。楽しくない、つまらない日常を脱するために、ずっと憧れていた世界に飛び込むために。
 わたしはマサムネから視線を外して、コーチと呼ばれた男の人に向き直った。
「わたしをこのジムに入れてください。」